アパレルなんかでは特に、近年の環境問題を取り入れ、再生素材やリサイクルに対しての意識が非常に高まっていて、言うまでもないが技術や化学的な進歩によってそういった事を取り入れられるようになっている。
ただそこで単純に思うのは、再生繊維やリサイクル素材を使って商品を作るとして、お客さんが商品を購入し、それから数年経った後、その服が同じようにまた着られなくなったら、またそれも捨てられるんじゃないかと。
日本で言えばフリマ系アプリや古着屋などに流通させることはできるかもしれないけれど、でもそれだと単に個人の手元を離れただけであり、物質としてはこの世の中に残ってしまう。
じゃあその服をまたリサイクルやリメイクして世の中に出したとしても、また同じループに乗るとしか行き着くところがないと思う。
色んな手立てを施したところで、結局は延命だという気がする。
あと大きな問題になっていたのは、いらなくなった服を回収して海外の貧困地域に服を支援として送っていた大きな企業が何社もあるが、それを慈善事業として行っていたつもりが、その服がまさに絵に描いたように”山の様”にゴミとして行き場を失って、その貧困地域を異臭問題、ゴミ処理問題として逆に迷惑をかけてしまったこともある。そっちでいらないものはこっちでもいらないって感じで。
それに、素材が再生素材だとしても、ファスナーやボタンや紐やゴムなど、服にはいろんな付属が使われている。 素材と縫い合わさったそれらは、結構解くのも大変だ。むしろ縫うより解く方が大変だとぼ縫製をしているぼくは知っている。じゃあこれからどう処理するのか。
ここまでくると一体何が本当の ”良い” と言えるのかが分からなくなってくる。結局物質としてこの世に排出する以上、根本的なこの問題とは向き合っていかなきゃいけなくなる気がしている。
オーガニックに関しても、世の中に出回っているオーガニックコットンを使った服で言えば、つぶさに調べて見ていけば、100%自然のまま出回っているオーガニックなんてものはこの世の中に殆どないと聞いた。
紡績など、繊維が糸になる前の綿(わた)の段階から現地まで買付に行って輸入している会社に話を聞いたことがあるが、そもそもオーガニックコットンと呼ばれている綿があんなに綺麗な白な訳がないと。
確かに、綿(わた)はそもそも真っ白ではなく、茶色っぽい生成り色であって、さらにそこに土がついたり、綿カスと呼ばれる綿花の葉や茎の残りである人間にとっての不用物が付着している。それをちゃんと取り除くか、もしくはそのまま生地にするのかはおいといて、自然レベルなのでこれらはどうしようもないこと。
それを人間が求める綺麗な状態、すなわち”良い感じの白色”にするために結局は蛍光白色料だって使われている。それにオーガニックコットンを使用していても色物の服だってたくさんある。糸の段階や生地の段階で染めている。それでオーガニックって言えるのか?
さらに言えば、じゃあ縫ってるミシンの糸やブランドタグや品質タグなどは全てオーガニックなのか?ミシンの糸なんかはぼくは実際に糸を開発してもらって試したことがあるが、ある程度の強度を出すために撚ったり撚糸たりしないと、細い番手なんかで縫うのはミシンを使うならかなり難しい。そうすると50番くらいの細さが結構限度だと見えてきた。
ウチの工場では60番のFIT糸やスパンというポリエステル糸を使っていてシャツなんかを縫うときにはその細番手が綺麗だ。
だから綿糸の50番ともなれば、糸の毛羽もあるし、ポリエステルより若干太い。その上伸度は低いから切れやすい。
そうすると綿糸で縫うときに糸調子を合わせるために滑りを良くしないと目飛び、パッカリングが起きたり、糸目がミの字になってしまったりと、思うように綺麗に縫えないから、最終段階で多少の加工はしないとなんともならないのだとぼくは体験し、痛感した。
既にこの段階でオーガニックの概念からはどうしてもかけ離れてしまう。結局は究極の正真正銘のオーガニックは殆どないと言える。
むしろ今のように化学や技術が進歩していない、大昔のミシンはもちろん機械すら何も無いような、綿を紡ぐのも、糸も拠るのも、縫うのも、全て全てを人の手だけでやってた頃が一番答えに近いと思えてならない。
これらを持ってして改めて考えても再生、リサイクル、オーガニックとかサスティナブル、エコなど、これらが「言葉」として根本的に正しいのかどうかを正直ぼくはずっと疑問に思っている。SDGsという言葉に対しても全く同じように思う。
もう薄々勘づいているけど、結局これらの言葉が生まれた根本は全て「経済的動機」であるからに過ぎなくて、ボタンをかけ違えていると言うか、言ってることが矛盾しているとしか今のぼくの頭や経験ではこれ以上の考えに辿り着けないでいる。
誰が悪いとか良いとかそんな表面的で薄っぺらい事ではなくて、結局はもう、戻れないところまで来てしまったまでとしか言いようがない。
ぼくの知識不足や情報不足であったり、思考回路や思考方法がそうさせているのかもしれないけれど、多分、そうだと思う。
当然、これまで自分達人間がやってきたことを少しずつでも舵を取り直していくことはできても、結局 ”完全” なものはそう簡単な訳が無いし、時代が進めば進むほどどんどん遠ざかる一方だろう。だってこんな世の中なんだから。
なんかの本で読んだけど、地球に負担をかけないようにと、幾ら聞こえの良いことを言ったとしても、人が農耕する時点でもう既に負担がかかってるというそもそもの話を読んだ。なんの本かは忘れてしまったけど。それを言われちゃ元も子もない。
と、ここまで書いているけど、別にぼく自身がエコやサスティナブルな活動に本気だということでは全くない。
つまり、"ビジネスとしてのエコ" な活動をしている世の中の大多数の会社や、ぼくなんかのような奴があーだこーだ言ってること自体、本気で活動している人からしたら中途半端であり、偽善者であるとしか思えないだろう。そう思うとぼくがこんなところで何か書いているのも失礼でしかないと思う。(と言いつつ思ったことを書く日記なので書いてみる)
つまりそこについてはこれ以上語れる資格や理由は、今のぼくにはない。
だからこそぼくは手放しで "そういう言葉" を、善として使えないし、そもそも表面的な綺麗事が元々好きじゃない。
「わーわーと言っても仕方がない。自分ができるとをやる。」
それ以上でも、以下でもない。結局はそこしかない。
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