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「545」自由と制限についてさらにもう一回

ふっと、物事が頭の中でいきなり合致することがある。合致というか「そうか!こういうことだったのか!」という納得というか。

制限があるから自由があるという事について、日記で何度か書いたことがあったけど、実は自分の中で明確にこのことだ!ってビシッと言えるまで来ていなかったけど、今回の納得では、ようやく近づいて来た感がある。

「自由」という”モノ”について、初めの頃は「肘外に曲がらず」という言葉から紐解いていた。肘は内側にだけ曲げることが出来るから、筋肉が付き、人間は物を持てるようになったという。そういう観点からの自由。制限があるからこそ、その中でどうするか。その中だったらどうすることだって良い。そこで生まれる新たな発想こそ、自由の象徴であると。そんな意味の自由を語ってた。

もう一つは、”制限(ルール)”があって、そのルールそのものは、社会的なものじゃなくて、そもそも”自己”であるということ。要するに「自らが由とすることを」を自由と呼ぶ。それが本来の自由の意味合いだ。という、そもそもの観点の自由を語ってた気がする。

もう一つが最近ふと合致したもので、ここにプラス@された最も本質的なこと。(だと思っている。)それは、そもそも自由なんて言葉自体、存在しなかったに違いないということ。

自由という言葉を作ったのが人間であれば(絶対そうだけど)、そもそも人間が作り上げた概念に過ぎない。地球規模、宇宙規模、惑星規模?で考えたら、そんな言葉はまず存在しない。この地球の人間の社会にだけその概念がある。この言葉が誕生した理由は、きっと「制限」「制度」という言葉や概念があったから出来た言葉だと思われる。想像するにそうに違いない。

それは、以前日記に書いた人為的(ノモス)と自然(フィシス)の言葉の成り立ちに非常に似ていて、ノモスがあったからフィシスが生まれたということ。そもそも自然という言葉自体がない中で当然のように自然は既に成り立っていて、そこに人為的なもの(社会)が誕生した事により、反対側である自然が意識されるようになっただけだ。

これになぞられれば、自由とは、制度や制限といういわゆる社会的なルールがあるからこそ生まれた言葉に過ぎない。つまり、そもそも人間(動物)が自由(本性)であることは当たり前。そうでしかないと思う。

という、ぼくなりの、まぁとりあえず一段楽出来そうな答えに辿り着いた。今年一スッキリした。

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